前回のブログでは、「ひのきしん」は、何でも神様の御用と思って自発的に行うことだよね!ということについて書かせていただきました。
今回はその続き。
実は「ひのきしん」って信仰の王道、まっすぐど真ん中なんじゃないか、ということについて書かせていただきます。
どういうことかと申しますと、前回、みかぐらうたの「ひのきしん」の手振りは歩く姿だと紹介しました。私はこの歩く姿と聞いて、まっさきに思い浮かんだのは、天理教は「お道」と言われるということです。
道はどういうところに出来るか。人が歩くから道が出来ます。そして、多くの人が歩くようになり、頻繁に行き来するようになることで、大きく、しっかりした道になっていくのです。では、どうしたら多くの人が行き交う道になるのか。
そこで重要になってくるのが、「ひのきしん」だ!
何をするにもおぢばの神様の御用と思って、自発的に行う姿が大切なんだ、と気づいたのです。
「ひのきしん」が、多くの人が行き交う大きな道へとつながる、ということについて説明する前に、まずは自発的な神様の御用の中にある神様が喜んでくれる2つのポイントについて触れさせてください。
① 顔の見えない誰かに喜んでもらう
よく言われますね、トイレのスリッパが乱れていたら、それを揃えるのも立派なひのきしんですよって。ではなぜ、トイレのスリッパを揃えることが、神様の御用になるのでしょうか。スリッパを揃えることで、いったい何が起こるのでしょうか。
それは、次に入る人が、スリッパを履きやすくなりますね。つまり、次にトイレを使う人に、「喜んでもらえる」。しかも、目の前にいる人ではなく、顔の見えない誰かに喜んでもらうことにつながるのです。
② 人のやりたがらないことをすすんで行う
もう一つは、いまトイレの例えを出したので、関連してトイレ掃除。
昔は、修養科のひのきしん場所として、トイレ掃除が真っ先に多くの手が挙がって、みんな率先してトイレ掃除をしたという話を聞いたことがあります。長期ひのきしん以外でも、トイレに行くと修養科生が掃除をしている姿をよく見かけたそうです。
これはお道だけではなく一般社会でも、例えば松下幸之助さんは、誰よりも早く出社をしてトイレ掃除をしていた、なんて話も聞くほど、トイレ掃除が重視されます。ではなぜトイレ掃除がそれほど重視されるのか。それを進んでする人を神様はお喜びになるのか。
それは、「人がやりたがらないこと」だからではないでしょうか。「人がやりたがらないこと」を自分からすすんでやるというところを、神様はすごくお喜びになるのだと思います。
目の前の誰かではなく、顔の見えない誰かの喜びを自分の喜びとして動くことができる。そして、人がやりたがらないことを自分から率先して、喜んで行うことができる。
これはまさしく神様が喜んでくれることであると同時に、社会においても求められる人材であると思うのです。
そして、そんな人からはきっと良い「にをい」がしているのではないかなと思います。
一人一人が、何をするにも神様の御用と思って、神様に喜んでもらおうと自発的に、人が喜ぶこと、また人がやりたがらないことを喜んで行うという「ひのきしんの態度」が身についていたら、きっとそれが良い「にをい」となる。
にをいは、何も言わなくても、自然と人に伝わり、良いにをいには人が集まる。人が集まり、一緒に歩く人が増えたら、その道はもっと大きな道になる。
そう想像すると、「ひのきしんの態度」はこの信仰という道のど真ん中であり、その一歩一歩が、お道の未来を大きな道にすることにつながっていると思えないでしょうか。私はそう想像すると、とてもワクワクしてきます。
現在は、教祖がお姿を隠されてから140年目の年祭に向かう道中です。私はこの道中、また初心に帰り、いち信仰者としての自分、そして誰でもいつからでもできる「ひのきしんの態度」というとても大切なことを今一度念頭において、しっかりと歩かせていただきたいと思います。
長文になってしまいましたが、今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
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